俺の目の前には今、鉄の鍋が置かれている。 鉄の鍋の中には色の濃い汁……割り下の中でおいしそうに煮える食材達。 ねぎ、豆腐、肉、白滝、春菊……どの食材も割り下と同じ色に染まっていて実においしそうな湯気を 立てている。 甘い醤油のにおいが立ち込める部屋の中、無意識に俺の頬を透明な雫が滑り落ちた。 「マ、マコトさん……何故泣いているんですか……?」 「いや、鍋料理ってこういったものだったんだなぁ、と思ってつい……」 「……は?」 「あ、いや、なんでもないよこっちの話だから」 湯気の向こうでジェフ君が心配そうに俺を眺めているのが見える。 いけないいけない、まともな鍋料理なんて久々だからな……。 脳裏に弟の手によって作られた鍋が浮かぶ。 俺は軽く頭を振ってカラフルなイメージを頭から追い出し、ジェフ君に笑いかけた。 「ジェフ君は、すき焼きは初めて?」 俺の声に興味深そうに鍋を覗き込んでいたジェフ君が顔を上げる。 今日はオフのためか、いつものようなかっちりしたネクタイ姿ではなくラフな服装をしているジェフ 君。 ネクタイ姿もいいけどオフのジェフ君もいいなぁ、と俺は思った。 「話には聞いたことがあるんですけど……食べるのは初めてです」 ジェフ君が鍋から目を話し、部屋を見回す。 「けれどいいんですか、こんな高価な物……しかも個室でだなんて」 「かまわないよ、ジェフ君と一緒に食事ができるんだしね」 珍しくちゃんと給料もらえたか懐には多少余裕があるし。 それに……。 「せっかくだから二人だけでのんびり食事したいしね」 ジェフ君の目を捉えて言う。 ジェフ君の顔に少しだけ朱が入るのが見えた。 「あんまり恥ずかしいこと言わないでくださいよ……」 「あはは、ごめんごめん、さぁ煮えすぎないうちに食事にしようか」 「はい」 お互いの小皿に鍋の中身を少しずつ取ると、二人で手をあわせる。 「いただきます」 「いただきます」 ジェフ君が顔を上げて、俺のほうを見る。 「……でいいんでしたっけ?」 俺は上目遣いで俺のほうを見るジェフ君に対して、微笑んだ。 ジェフ君がなれない箸使いで肉を口に運ぶ。 「どう?」 「……ちょっと、濃い味ですね」 「あははは、溶き卵を付けないと濃いかもね」 ジェフ君がまたなれない手つきで卵を溶いて、今度は豆腐のかけらを口に運ぼうとする……が、崩れ てうまくつかめないみたいだ。 やっとのことで豆腐を口に運ぶと、ジェフ君の眉が驚いたようにぴくりと動く。 「なるほど、確かにちょうどいいバランスになりますね」 「でしょ?あとは個人の好みでご飯と一緒に食べたり薬味を入れたりするといいよ」 「……マコトさんは、食べないんですか?」 あ、ジェフ君の観察に夢中になって忘れてた。 その言葉をそのままジェフ君に伝えると、またジェフ君の顔が赤くなった。 照れちゃってかわいいなぁと思いながら、俺も肉を口に運ぶ。 うん、おいしい。 忘れていた鍋の味というものを思い出す。 脳裏にまたカラフルなイメージが思い浮かびそうになるのを、俺は必死で押し込めた。 「今度、また日本でお仕事することになりそうです」 「へぇ、じゃあまた髪の毛切りに来てよ、腕によりをかけて切ってあげるからさ」 「ええ、是非よろしくおねがいします」 たわいも無い会話を続けながら、俺とジェフ君の食事は続く。 鍋の中身があらかた無くなり、食後のお茶で一服。 「いやー、おいしかったねー」 「ええ、今日はありがとうございました」 ジェフ君が湯飲みを手に微笑む。 俺もそんなジェフ君の嬉しそうな顔を見て、微笑んだ。 「鍋料理って奥が深いんですね……ええっと、すき焼きですよね、これ」 「うん、あってるよ」 自信がなさそうにたずねるジェフ君に俺は笑って答える。 食べ終わった後の鍋をマジマジと見つめるジェフ君。 こんなに喜んでくれるなんて、誘ってよかったな。 「あ、そうだこの前読んでみたいって言ってた本、買ったんだけど読む?」 「いいんですか?」 「俺はもう読み終わったから持ってっていいよ、それじゃ俺んち行こうか」 立ち上がって、会計を済ませ、店を出る。 やっぱりそれなりの値段がしたけれど、ジェフ君が喜んでくれてよかったと思う。 「ううっ、夜はまだやっぱり寒いな……」 「そうですね」 店員の見送りの言葉を背に、扉を閉め、上を見上げる。 そこには夜の空に、煌々と輝くすき焼きの文字が入った看板があった。 すき焼き……すき焼き……すきやき……あ。 「マコトさん、どうかしましたか?」 「ううん、ねぇジェフ君、すきやきからやきを抜くとなーんだ?」 ふと頭に浮かんだのは、学生時代にはやった言葉遊びのようなもの。 「え……すきやきから、やきですか?」 ジェフ君が突然のことに戸惑いながらも言葉をつむぐ。 「ええと……すき、ですか?」 俺はその言葉ににっこりと微笑む。 「うん、俺はジェフ君のことが好きだよ」 ジェフ君が俺の言葉に一瞬、疑問の顔を見せる。 が、その顔が表情を変えないままみるみるうちに赤くなっていくのが手に取ったように見て取れた。 どうやら自分が今何を言ったかに気がついたらしい。 「……マコトさんっ!」 「あはは、あーもージェフ君ってば、かわいいなぁ」 うつむいて、何かを小声でつぶやいているジェフ君。 さて、今度はジェフ君とどこへ行こうか。 とりあえず冬の風が吹き抜ける街をジェフ君と二人、俺の家まで歩いていこうか。 |
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