「えっ、青木さんお帰りになられてしまったんですか?」 「ええ、買い物があるとか行って、少し前に帰られましたよ」 いつものように、青木さんの駅で降りたオクターヴにもうすっかり顔なじみになってしまった駅員さんが 告げた。 「そう、ですか……」 オクターヴががっくりと肩を落とす。 今日は珍しく、青木さんの仕事が早く終わる日。 食事にでも誘おうと思っていたオクターヴのもくろみはもろくも崩れ去ったことになる。 あの時一本電車を乗り過ごしてしまったのがいけなかったのだろうか、と心の中で自分を責めながらオク ターヴは一人、帰路につき始めた。 気持ちのせいからか、いつもよりも帰り道が暗く見えてしまう。 「はぁ……」 誰もいない路地で、オクターヴは一つため息をついた。 そのままいつものように十字路を右に曲がろうとした時、ふとオクターヴは鼻に違和感を感じた。 いや、違和感と言うのは違うかもしれない、どこからかおいしそうな香りが漂ってくるのだ。 最初はどこかの家から漂ってくる夕ご飯の香りだろうかとも思っていたが、どうも違う。 オクターヴはその香りに引き寄せられるかのように、十字路を左へと曲る。 楽しそうな声の聞こえる住宅街を抜け、閉店の準備をしている商店の角を曲がり、入り組んだ路地を右へ 左へと通り過ぎていく。 どんどん強くなる上品な香りに引き寄せられ、小さな路地を行くと、やがて小さな空き地へとたどり着い た。 「あれは……」 彼の目線は空き地の中心で輝く大きな赤提灯に注がれた。 そこで、オクターヴは先ほどから自分の鼻をくすぐる香りの正体に気がついた。 昆布ダシと、様々な具材の匂い。 「たまには、いいかもしれませんね」 そうぽつりと一言つぶやくと、オクターヴは赤い光へと吸い込まれていった。 「へい、いらっしゃい!」 のれんをくぐった瞬間、ねじり鉢巻をした店主が威勢のよい声でオクターヴを迎え入れた。 屋台内にはオクターヴと同じ、仕事帰りと見られるサラリーマンが二人ほどいたが、目だけでオクターブ を見やるとすぐに自分の皿へと目線を降ろした。 「とりあえず、熱燗お願いします」 「熱燗ね」 店主がとっくりと酒瓶を棚から取り出す。 オクターヴは帽子を取り、目の前の湯気を立てる金属製の箱を見た。 澄んだダシの中に、大根、ちくわ、こんにゃくなどさまざまな具材が浮かんでいる。 先ほどからオクターヴの鼻をくすぐっていたものの正体はこれで間違いなさそうだ。 「はいよ、熱燗」 「あ、ありがとうございます」 「おでんはどうする?」 「えーと、じゃあ大根とたまご……それとじゃがいももお願いします」 店主の手からとっくりとおちょこを受け取る。 その中身はほどよく温まった透明な液体で満たされている。 「大根とたまごとじゃがいもね」 店主が慣れた手つきで目の前の具材をすくい上げ、皿にのせオクターヴに渡す。 おいしそうな湯気を立てるおでんを見て、オクターヴは心まで温まるような気分になった。 とっくりの中身を注ぎ、割り箸を割ると、オクターヴは小さく「いただきます」とつぶやいて大根に箸を 入れた。 「……おいしい!」 味のしみた大根に感激するオクターヴ。 おちょこの中身を一口飲むと、その喉越しとあいまって言いようの無い幸せに包まれる。 「またどうぞー」 サラリーマンのお会計を済ませた店主にオクターヴは話しかけた。 「とても、おいしいですね!大根もう一つお願いします」 「おう、うまいか?素材にはちっとこだわっているからな」 店主があつあつの大根を皿に盛り、オクターヴに手渡す。 「いつも、ここにお店を出してらっしゃるんですか?」 「おう、店始めたのは最近なんだけどよ、たいてい毎日ここでやってるから、よかったらひいきにしてく んな!」 「ええ、ぜひ」 お酒で喉を潤しながら、おでんを口へと運んでいくオクターヴ。 どの食材も素材の味が十分に引き出されていて、オクターヴの顔にも思わず笑みが浮かぶ。 「これはぜひ青木さんをお誘いしたいですねー」 オクターヴの頭に青木さんの姿が思い浮かぶ。 日本酒が好きな青木さんのことだから、きっとこの屋台も気にいってくれることだろう。 ふと、青木さんのことを考えてオクターヴの箸が止まる。 青木さんは自分のことをどう思っているのだろうか、と。 おいしいおでんを見つめながらオクターヴは考えた。 私はいつも青木さんのことを考えていますが、青木さんは私のことを考えてくれているのでしょうか? オクターヴは心の中で思いつつ、日本酒を軽くすすった。 ぼーっと考えていると店主の大きな声が屋台に響く。 「へい、いらっしゃい!おや、青木の旦那じゃねぇか」 誰かまた屋台にやってきたようだ。 ……青木? オクターヴの頭に何かが引っかかり、オクターヴは頭を上げた。 「こんばんは、今日も繁盛してるね、とりあえず熱燗頼むよ」 頭を上げたその先には、先ほど頭に思い描いたばかりの青木さんの姿がそこにはあった。 「……青木さんっ?!」 「あれ、オクターヴ君も来てたの?」 青木さんはオクターヴを見て、一瞬驚いたような顔したが、またいつもの笑顔に戻った。 「青木さん、お帰りになられたのではなかったのですか?」 「うん、今日はオクターヴ君の仕事が早く終わる日だろう?だから、先に自分の買い物を済ましておこう かなと思ったんだけど入れ違いになっちゃったみたいで……何だ、オクターヴ君もここ知ってたんだ、 今日一緒に来ようかと思ってたのに」 「いえ、私は今日偶然ここを知って……青木さんはこちらにはよくいらっしゃるのですか?」 「うん、ここのおでんおいしくてついね、どう、おいしい?」 青木さんがコートを脱ぎながら、笑顔でオクターヴに告げる。 「ええ、上品なお味でとてもおいしいですね」 「よかった、きっとオクターヴ君が好きそうな味だと思ったんだよね、大将、僕つみれとちくわぶとがん もどきお願いね」 「あいよ」 オクターヴの横に座り、慣れたように店主に注文を告げる青木さん。 「……え、私のことを考えて下さったのですか?」 今までの青木さんの発言をオクターヴは心の中で噛み砕いた。 その発言に青木さんは熱燗を受け取りつつ、ふわりと笑った。 「だって、オクターヴ君は僕の大切な友人だからね、いつも僕ばっかり紹介してもらってるし、ね」 青木さんがおちょこにお酒を注ぎながら答える。 『大切な』……『友人』ですか。 オクターヴは青木さんの言葉に複雑な感情を覚える。 「オクターヴ君?」 意識を戻すと、青木さんが首をかしげるようにオクターヴの顔を覗き込んでいる。 ふと自分のおちょこに目をやると、お酒がなみなみと注がれている。 「あ、すいません、ぼーっとしてまして」 「今日も一日、お仕事お疲れ様」 青木さんがにこりと笑って、自分のおちょこをオクターヴのほうへと差し出す。 オクターヴはその意図に気がつき、自分のおちょこ持つ。 「青木さんも、お疲れ様です」 今はまだ、このままでいい。 二つのおちょこがカツンと乾いた音を立てあわさった。 |
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